博物館に関することや歴史的なことにお答えします。(質問を押すと答えがでます。)
- 造幣博物館に行きたいのですが、手続きや注意事項などについて教えてください。
- 博物館見学(本局)、博物館見学(さいたま支局)および展示室見学(広島支局)でご案内していますので、ご確認ください。
- 大時計について教えて?
- ガス燈について教えて?
- 皇朝十二銭って何ですか?
- 中国の貨幣を参考にして富本銭を造ったって本当ですか?
- 渡来銭って何ですか?
- 「びた銭」って何ですか?
- 皇朝十二銭以後、日本の貨幣鋳造を復活させたのは誰?
- 竹流金って何ですか?
- 江戸時代の貨幣制度について教えて?
- 古代ギリシャ・ローマ貨幣はありますか?
- ギリシャの貨幣について教えて?
- 大時計について教えて?
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この大時計は、造幣局創業当時の工作方技師大野規周(のりちか)(本名大野弥三郎(文久2年(1862年)から6年間オランダに留学)が明治9年(1876年)6月に製作したもので、当時の工場の正面に取り付けていたものであり、局内に時刻を知らせていました。
平成10年(1998年)1月に修理を行い、明治の昔そのままに刻を告げる鐘の音を響かせるようにしました。
- ガス燈について教えて?
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このガス燈は、創業当時のものです。明治4年(1871年)に現在の泉布観の北側にガス製造所が設置され、構内や付近の街路の屋外照明用に65基工場や宿舎用の屋内照明用に621基のガス燈が設置されていました。
当時、一般の人々は行燈(あんどん)やローソクの光しか知らなかったので、明るいガス燈の光は浪速の人々を大いに驚かせ、日が暮れると多数の見物人が集まったといわれています。
- 皇朝十二銭って何ですか?
- 奈良時代から平安時代にかけて朝廷が鋳造した和銅開珎をはじめとする12種類の銭貨のことを「皇朝十二銭」または「本朝十二銭」といいます。朝廷は、中国に倣い政府の作った貨幣を流通させようとしましたが、朝廷の権力が弱まるにつれ国民の信認が得られなくなり、貨幣は鋳造されなくなります。以後、豊臣秀吉が貨幣をつくるまでの600年間、日本で統一した貨幣はつくられませんでした。
皇朝十二銭は、
- 和同開珎(わどうかいちん(ほう)、708年)
- 万年通宝(まんねんつうほう、760年)
- 神功開宝(じんぐうかいほう、765年)
- 隆平永宝(りゅうへいえいほう、796年)
- 富壽神宝(ふじゅしんぽう、818年)
- 承和昌宝(じょうわしょうほう、835年)
- 長年大宝(ちょうねんたいほう、848年)
- 饒益神宝(にょうやくしんぽう、859年)
- 貞観永宝(じょうがんえいほう、870年)
- 寛平大宝(かんぴょうたいほう、890年)
- 延喜通宝(えんぎつうほう、907年)
- けん元大宝(けんげんたいほう、958年)
の12種類です。
- 中国の貨幣を参考にして富本銭を造ったって本当ですか?
- 日本は、中国の貨幣、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を参考にして富本銭を造りました。
紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝は、中国の貨幣を統一し、円形方孔貨幣(四角い孔のある円形の銅銭)を製造しました。
それ以前の中国では、魚や刀などを模した金属や当時貴重であった貝を貨幣として使用していました。
- 渡来銭って何ですか?
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皇朝十二銭の後、平安時代から室町時代までの約400年間、日本での貨幣製造は中断されました。その間都市部では、中国から大量に輸入された宋銭や明銭が使われました。これらを総称して「渡来銭」といいます。
宋銭は中国だけでなく、東アジアにおいても使用されていた国際通貨でした。日本でも民間貿易が盛んになると、大量の宋銭が輸入されるようになり都市部で流通しました。
- 「びた銭」って何ですか?
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漢字では「鐚」と書き、質の悪い銭を意味しています。
室町時代、日本は明から大量の銅銭を輸入していましたが、経済が活発化していたこともあり、それ以上の銅銭を必要としていました。そこで、渡来銭をまねた私鋳銭や、磨耗等の進んだ悪銭が出回るようになり、これらを総称して“びた銭”と呼ぶようになりました。びた銭は、渡来銭の中でもよく使用されていた永楽通宝に比べて質が悪く、割り増しを要求されたり、受け取りを拒否されることもありました。
- 皇朝十二銭以後、日本の貨幣鋳造を復活させたのは誰?
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皇朝十二銭以後、600年間日本での貨幣製造は中断しました。そして600年ぶりに全国統一の貨幣を造ったのは豊臣秀吉です。
天下を平定した豊臣秀吉は、全国の金銀鉱山の支配権を手中に収め1587年から金貨および銀貨の鋳造を始めました。秀吉はこの金貨、銀貨の力を背景に、天下統一を確固たるものにしていったのです。秀吉が発行した貨幣の中には、世界最大級の金貨として名高い「天正長大判」(重さ165グラム)もあります。どの貨幣も銅銭とは異なり、流通用としてではなく主に贈呈用として使用されました。
- 竹流金って何ですか?
- 竹流金(たけながしきん)は、永禄、天正の頃から豪族、大名達が軍資金として備蓄したり恩賞用としたもので、竹筒に流し込んで作られたといわれています。
- 江戸時代の貨幣制度について教えて?
- 徳川家康は天下を統一すると、貨幣制度についても全国統一を目的とした金銀貨幣を製造しました。
貨幣の種類には、大判・小判のような金貨と丁銀・豆板銀のような銀貨及び銭貨がありました。金貨は、額面のある計数貨幣ですが、銀貨は重さを量って使用する秤量貨幣でした。のちに銀貨にも一分銀などの計数貨幣ができました。
江戸時代の貨幣の単位は、現在の10進法と異なり、4進法を使用しており、1朱4枚と1分1枚が同じ価値で、1分4枚と1両1枚が同じ価値でした。つまり、1両=4分=16朱=4000文となっていました。
しかし、17世紀後半になると幕府は、深刻な財政難を切り抜けるために金貨・銀貨の質を落として貨幣の数量を増やしましたが、物価が上がって人々を苦しめる結果となりました。また、金銀の産出量の減少も貨幣の質が悪くなっていった原因の一つです。
- 古代ギリシャ・ローマ貨幣はありますか?
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造幣博物館2階外国貨幣コーナーにあります。
古代の中国と同様に、古代ギリシャ・ローマの文明は、貨幣の面でも世界各国に大きな影響を与えました。紀元前から銀や銅にプレスした貨幣が造られ、その優れたデザインは現在でも高い評価を受けています。
- ギリシャの貨幣について教えて?
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ギリシアの貨幣 デザイン:オリーブ
(ギリシャ国花)デザイン:ふくろう デザイン:ふくろう 20レプタ (1954年) 5レプタ (1912年) 1ユーロ
EUへの加盟に伴い、2002年からユーロ貨幣が使用されていますが、ここでは、それ以前に使用されていたギリシャ貨幣についてご紹介します。
この国の貨幣に使われている文字は、すべてギリシャ文字であり、貨幣単位はドラクマ、1ドラクマは100レプタでした。硬貨の図柄は共和国の紋章の他、ペガサスとかふくろうといった古代ギリシャに関係ある図柄が描かれていました。
現在でも1ユーロに古代都市国家「アテネ」の4ドラクマ銀貨のデザイン(ふくろう)が描かれています。
- 泉布観について教えて?
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泉布観は、総レンガ造りのコロニアル風様式を取り入れた洋風建築物で、アイルランド人T.ウォートルスの設計で、明治4年(1871年)に建てられ、創業当時の造幣局の応接所として使用されました。
明治5年(1872年)造幣局に行幸された明治天皇が、この応接所を「泉布観(せんぷかん)」と命名されました。
泉布観の「泉布」は貨幣、「観」は大きな館という意味です。
- ペリーさんってどんな人ですか?
- 加納夏雄さんってどんな人ですか?
- 大野規周さんってどんな人ですか?
- 久世喜弘さんってどんな人ですか?
- 五代友厚さんってどんな人ですか?
- 遠藤謹助さんってどんな人ですか?
- 長谷川為治さんってどんな人ですか?
- 畑 正吉さんってどんな人ですか?
- 本田 渓花坊さんってどんな人ですか?
- ウォートルスさんってどんな人ですか?
- ブラガさんってどんな人ですか?
- キンドルさんってどんな人ですか?
- ガウランドさんってどんな人ですか?
- トーマス・グラバーさんってどんな人ですか?
- ツーキーさんってどんな人ですか?
- アトキンさんってどんな人ですか?
- マンチニさんってどんな人ですか?
- ペリーさんってどんな人ですか?
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嘉永6年(1853年)、米国からペリー一行が「黒船」を率いて来航して以降、わが国は開国への道を歩むこととなりました。幕末には、外国貨幣(メキシコドル)が流入し、内外の金銀比価に著しい差があったことから金貨幣が大量に海外に流出しました。 こうした状況の中、量目、品位のまちまちな貨幣が流通しました。更に外国貨幣、偽造貨幣までが加わり、幣制は混乱の極みに達していました。
幕府は外国に造幣局設立を約束しましたが、倒幕運動がますます激化し、ほどなく300年に及ぶ徳川の治世は幕を閉じることとなりました。
- 大野規周さんってどんな人ですか?
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加賀藩の技術者で、父祖3代幕府の天文台の測量器を作る家に生まれた。父規行は伊能忠敬が日本地図を作成する際に必要だった観測機器を製作していました。
文久2年オランダに留学、帰国後越前藩や幕府海軍に機械技術を指導、明治元年貨幣司続いて明治2年造幣局に奉職、明治19年まで在職しました。
その優秀な技術は、その当時首長であったキンドルも激賞しています。
桜ノ宮境内に遠藤謹助局長建立の顕彰碑が残されています。
小さい機械器具類はほとんど構内で自作されました。その指導にあたったのが、大野規周です。
自作の大時計、天秤などは、今も造幣博物館に現存しています。
- 畑 正吉さんってどんな人ですか?
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東京高等工芸学校教授、大正4年に造幣局の彫刻技術顧問を嘱託され、昭和2年彫刻研究所長、同5年に同研究所が廃止された後も昭和23年まで嘱託としてとどまった。この間、賞勲局の嘱託であったこともある。
文化勲章の製作者としても有名で、本局旧正門内にあります長谷川局長の胸像は氏の指導により製作されたものである。
- 馬車鉄道ってなんですか?
- わが国で初めて複式簿記を採用したのは、造幣局ですか?
- 造幣局創業当時の機械設備にはどのようなものがありましたか?
- 造幣局の創業式ってどのような感じだったの?
- 製造したものの発行されなかった貨幣について教えて?
- 馬車鉄道ってなんですか?
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明治4年、造幣寮と堂島新船町との間に資材運搬のため馬車鉄道を建設しました。明治6年に運行の所管を鉄道寮に移し、明治8年に敷地は大阪府に譲渡されました。
創業当時の造幣寮全景模型は造幣博物館1階に展示しています
- わが国で初めて複式簿記を採用したのは、造幣局ですか?
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香港造幣局の会計係であったブラガの指導により造幣局は、わが国で初めて複式簿記を採用、貸借を明らかにし、証拠書・日計表により勘定を明確にするなど会計事務の整備を行いました。ブラガは後に大蔵省(現財務省)に移り、官庁会計全般の指導に当たりました。洋式簿記は、造幣博物館1階に展示しています
- 造幣局創業当時の機械設備にはどのようなものがありましたか?
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創業の時点で既に金・銀貨幣の鋳造場は稼動しており、20馬力の蒸気機関2基が全設備の原動力で、金溶解用コークス炉6基、銀溶解用12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、圧印機8台などが配置されていました。
- 造幣局の創業式ってどのような感じだったの?
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明治4年4月4日、創業式が盛大に挙行されました。右大臣三条実美、参議大隈重信、大蔵卿伊達宗城ら政府高官、各国公使を来賓に、造幣寮からは馬渡造幣頭らの幹部、合わせておよそ100名が列席していました。
大阪城内からの21発の祝砲と、天保山沖の軍艦「富士」や外国軍艦からの祝砲が轟くなか、三条実美右大臣が告文を読み上げ、続いて自ら蒸気弁を用いて機械を運転させました。式典には花火が上がり、祝宴へと移りました。
翌日からは一般開放され、周囲の町家は提燈を掲げるなどお祭り騒ぎが続いたといわれています。
- 製造したものの発行されなかった貨幣について教えて?
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第2次世界大戦末期、軍需用に大量の金属が必要となり、貨幣に使用できる金属は極わずかなものになっていました。そこで造幣局では、京都、瀬戸および有田にそれぞれ出張所を設置し、昭和19年(1944年)から陶(せともの)を使った貨幣(10銭、5銭、1銭)の試作を行いました。昭和20年(1945年)7月には、京都と瀬戸で量産が始まりましたが、終戦により、8月には、陶貨の製造中止が決定され、製造された陶貨は粉砕破棄されることとなりました。
昭和25~26年(1950~51年)に製造された10円洋銀貨も、朝鮮戦争が勃発し、材料の一つであるニッケルの価格が高騰したため、手に入りにくくなり、発行されることはありませんでした。
また、大正7年(1917年)の10銭銀貨、20銭銀貨および50銭銀貨とも、銀価格の高騰のために未発行に終わりました。