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法人番号 6120005008509

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博物館や歴史的なことについて
博物館Q&A

博物館に関することや歴史的なことにお答えします。(質問を押すと答えがでます。)

見学方法
造幣博物館に行きたいのですが、手続きや注意事項などについて教えてください。
博物館見学(本局)博物館見学(さいたま支局)および展示室見学(広島支局)でご案内していますので、ご確認ください。

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展示品
  1. 大時計について教えて?
  2. ガス燈について教えて?
  3. 皇朝十二銭って何ですか?
  4. 中国の貨幣を参考にして富本銭を造ったって本当ですか?
  5. 渡来銭って何ですか?
  6. 「びた銭」って何ですか?
  7. 皇朝十二銭以後、日本の貨幣鋳造を復活させたのは誰?
  8. 竹流金って何ですか?
  9. 江戸時代の貨幣制度について教えて?
  10. 古代ギリシャ・ローマ貨幣はありますか?
  11. ギリシャの貨幣について教えて?
大時計について教えて?

大時計

この大時計は、造幣局創業当時の工作方技師大野規周(のりちか)(本名大野弥三郎(文久2年(1862年)から6年間オランダに留学)が明治9年(1876年)6月に製作したもので、当時の工場の正面に取り付けていたものであり、局内に時刻を知らせていました。

平成10年(1998年)1月に修理を行い、明治の昔そのままに刻を告げる鐘の音を響かせるようにしました。

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ガス燈について教えて?

ガス燈

このガス燈は、創業当時のものです。明治4年(1871年)に現在の泉布観の北側にガス製造所が設置され、構内や付近の街路の屋外照明用に65基工場や宿舎用の屋内照明用に621基のガス燈が設置されていました。

当時、一般の人々は行燈(あんどん)やローソクの光しか知らなかったので、明るいガス燈の光は浪速の人々を大いに驚かせ、日が暮れると多数の見物人が集まったといわれています。

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皇朝十二銭って何ですか?
奈良時代から平安時代にかけて朝廷が鋳造した和銅開珎をはじめとする12種類の銭貨のことを「皇朝十二銭」または「本朝十二銭」といいます。朝廷は、中国に倣い政府の作った貨幣を流通させようとしましたが、朝廷の権力が弱まるにつれ国民の信認が得られなくなり、貨幣は鋳造されなくなります。以後、豊臣秀吉が貨幣をつくるまでの600年間、日本で統一した貨幣はつくられませんでした。

皇朝十二銭は、

  1. 和同開珎(わどうかいちん(ほう)、708年)
  2. 万年通宝(まんねんつうほう、760年)
  3. 神功開宝(じんぐうかいほう、765年)
  4. 隆平永宝(りゅうへいえいほう、796年)
  5. 富壽神宝(ふじゅしんぽう、818年)
  6. 承和昌宝(じょうわしょうほう、835年)
  7. 長年大宝(ちょうねんたいほう、848年)
  8. 饒益神宝(にょうやくしんぽう、859年)
  9. 貞観永宝(じょうがんえいほう、870年)
  10. 寛平大宝(かんぴょうたいほう、890年)
  11. 延喜通宝(えんぎつうほう、907年)
  12. けん元大宝(けんげんたいほう、958年)

の12種類です。

皇朝十二銭

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中国の貨幣を参考にして富本銭を造ったって本当ですか?
日本は、中国の貨幣、唐の開元通宝(かいげんつうほう)を参考にして富本銭を造りました。

紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝は、中国の貨幣を統一し、円形方孔貨幣(四角い孔のある円形の銅銭)を製造しました。

それ以前の中国では、魚や刀などを模した金属や当時貴重であった貝を貨幣として使用していました。

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渡来銭って何ですか?

渡来銭

皇朝十二銭の後、平安時代から室町時代までの約400年間、日本での貨幣製造は中断されました。その間都市部では、中国から大量に輸入された宋銭や明銭が使われました。これらを総称して「渡来銭」といいます。

宋銭は中国だけでなく、東アジアにおいても使用されていた国際通貨でした。日本でも民間貿易が盛んになると、大量の宋銭が輸入されるようになり都市部で流通しました。

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「びた銭」って何ですか?

びた銭

漢字では「鐚」と書き、質の悪い銭を意味しています。

室町時代、日本は明から大量の銅銭を輸入していましたが、経済が活発化していたこともあり、それ以上の銅銭を必要としていました。そこで、渡来銭をまねた私鋳銭や、磨耗等の進んだ悪銭が出回るようになり、これらを総称して“びた銭”と呼ぶようになりました。びた銭は、渡来銭の中でもよく使用されていた永楽通宝に比べて質が悪く、割り増しを要求されたり、受け取りを拒否されることもありました。

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皇朝十二銭以後、日本の貨幣鋳造を復活させたのは誰?

天正長大判

皇朝十二銭以後、600年間日本での貨幣製造は中断しました。そして600年ぶりに全国統一の貨幣を造ったのは豊臣秀吉です。

天下を平定した豊臣秀吉は、全国の金銀鉱山の支配権を手中に収め1587年から金貨および銀貨の鋳造を始めました。秀吉はこの金貨、銀貨の力を背景に、天下統一を確固たるものにしていったのです。秀吉が発行した貨幣の中には、世界最大級の金貨として名高い「天正長大判」(重さ165グラム)もあります。どの貨幣も銅銭とは異なり、流通用としてではなく主に贈呈用として使用されました。

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竹流金って何ですか?

竹流金

竹流金(たけながしきん)は、永禄、天正の頃から豪族、大名達が軍資金として備蓄したり恩賞用としたもので、竹筒に流し込んで作られたといわれています。

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江戸時代の貨幣制度について教えて?
徳川家康は天下を統一すると、貨幣制度についても全国統一を目的とした金銀貨幣を製造しました。

貨幣の種類には、大判・小判のような金貨と丁銀・豆板銀のような銀貨及び銭貨がありました。金貨は、額面のある計数貨幣ですが、銀貨は重さを量って使用する秤量貨幣でした。のちに銀貨にも一分銀などの計数貨幣ができました。

江戸時代の貨幣の単位は、現在の10進法と異なり、4進法を使用しており、1朱4枚と1分1枚が同じ価値で、1分4枚と1両1枚が同じ価値でした。つまり、1両=4分=16朱=4000文となっていました。

しかし、17世紀後半になると幕府は、深刻な財政難を切り抜けるために金貨・銀貨の質を落として貨幣の数量を増やしましたが、物価が上がって人々を苦しめる結果となりました。また、金銀の産出量の減少も貨幣の質が悪くなっていった原因の一つです。

江戸時代のお金のしくみ

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古代ギリシャ・ローマ貨幣はありますか?

古代ギリシャ・ローマ貨幣

造幣博物館2階外国貨幣コーナーにあります。

古代の中国と同様に、古代ギリシャ・ローマの文明は、貨幣の面でも世界各国に大きな影響を与えました。紀元前から銀や銅にプレスした貨幣が造られ、その優れたデザインは現在でも高い評価を受けています。

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ギリシャの貨幣について教えて?
ギリシアの貨幣
デザイン:オリーブ
(ギリシャ国花)
デザイン:ふくろう デザイン:ふくろう
20レプタの写真 5レプタの写真 1ユーロの写真
20レプタ (1954年) 5レプタ (1912年) 1ユーロ
ギリシャはいうまでもなく、古代オリンピック発祥の地として、また西洋文明発祥の地として一般によく知られている国です。この国は1973年共和制を宣告、王国から共和国となりました。

EUへの加盟に伴い、2002年からユーロ貨幣が使用されていますが、ここでは、それ以前に使用されていたギリシャ貨幣についてご紹介します。

この国の貨幣に使われている文字は、すべてギリシャ文字であり、貨幣単位はドラクマ、1ドラクマは100レプタでした。硬貨の図柄は共和国の紋章の他、ペガサスとかふくろうといった古代ギリシャに関係ある図柄が描かれていました。

現在でも1ユーロに古代都市国家「アテネ」の4ドラクマ銀貨のデザイン(ふくろう)が描かれています。

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歴史的建造物
泉布観について教えて?

泉布観

泉布観は、総レンガ造りのコロニアル風様式を取り入れた洋風建築物で、アイルランド人T.ウォートルスの設計で、明治4年(1871年)に建てられ、創業当時の造幣局の応接所として使用されました。

明治5年(1872年)造幣局に行幸された明治天皇が、この応接所を「泉布観(せんぷかん)」と命名されました。

泉布観の「泉布」は貨幣、「観」は大きな館という意味です。

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歴史的人物
  1. ペリーさんってどんな人ですか?
  2. 加納夏雄さんってどんな人ですか?
  3. 大野規周さんってどんな人ですか?
  4. 久世喜弘さんってどんな人ですか?
  5. 五代友厚さんってどんな人ですか?
  6. 遠藤謹助さんってどんな人ですか?
  7. 長谷川為治さんってどんな人ですか?
  8. 畑 正吉さんってどんな人ですか?
  9. 本田 渓花坊さんってどんな人ですか?
  10. ウォートルスさんってどんな人ですか?
  11. ブラガさんってどんな人ですか?
  12. キンドルさんってどんな人ですか?
  13. ガウランドさんってどんな人ですか?
  14. トーマス・グラバーさんってどんな人ですか?
  15. ツーキーさんってどんな人ですか?
  16. アトキンさんってどんな人ですか?
  17. マンチニさんってどんな人ですか?
ペリーさんってどんな人ですか?

ペリー

嘉永6年(1853年)、米国からペリー一行が「黒船」を率いて来航して以降、わが国は開国への道を歩むこととなりました。幕末には、外国貨幣(メキシコドル)が流入し、内外の金銀比価に著しい差があったことから金貨幣が大量に海外に流出しました。 こうした状況の中、量目、品位のまちまちな貨幣が流通しました。更に外国貨幣、偽造貨幣までが加わり、幣制は混乱の極みに達していました。

幕府は外国に造幣局設立を約束しましたが、倒幕運動がますます激化し、ほどなく300年に及ぶ徳川の治世は幕を閉じることとなりました。

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加納夏雄さんってどんな人ですか?

加納夏雄

京都山城国生まれ、12歳で金工を学び、18歳の頃開業、夏雄と名乗る。25歳で上京、明治2年帝室御用を命ぜられ明治天皇の御太刀の装具を彫刻、同年、造幣局出仕、新貨幣の意匠作成、試鋳、極印の製造に携わりました。

明治8年退職、東京美術学校教授となりました。

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大野規周さんってどんな人ですか?

大野規周

加賀藩の技術者で、父祖3代幕府の天文台の測量器を作る家に生まれた。父規行は伊能忠敬が日本地図を作成する際に必要だった観測機器を製作していました。

文久2年オランダに留学、帰国後越前藩や幕府海軍に機械技術を指導、明治元年貨幣司続いて明治2年造幣局に奉職、明治19年まで在職しました。

その優秀な技術は、その当時首長であったキンドルも激賞しています。

桜ノ宮境内に遠藤謹助局長建立の顕彰碑が残されています。

小さい機械器具類はほとんど構内で自作されました。その指導にあたったのが、大野規周です。

自作の大時計、天秤などは、今も造幣博物館に現存しています。

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久世喜弘さんってどんな人ですか?

久世喜弘

大垣藩士、ペリーの来航に刺激されて化学の研究をはじめ、写真機や火薬についても造詣が深かった。創業式の花火をつくりました。

新貨条例制定、造幣寮創建に参画、貨幣司判事を経て造幣局判事(初代の造幣寮精製分析所長)となり、明治11年に退職しました。

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五代友厚さんってどんな人ですか?

五代友厚

もと薩摩藩士、慶応4年に新政府の参与職外国事務掛となり、同年5月外国官権判事、大阪府権判事兼任、明治2年7月退官、明治の大阪経済の基礎を造成しました。

明治33年9月堂島3丁目の商工会議所前に銅像が建設されました。慶応4年(1868)4月洋式設備による近代造幣工場の建設を決定した政府は、閉鎖の状態にあったイギリスロイアルミントの香港造幣局から機械を購入することとしました。

その際五代友厚等の尽力により、6万両で購入契約を締結しました。

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遠藤謹助さんってどんな人ですか?

遠藤謹助

長州藩士、井上馨、伊藤博文らと英国留学。

明治3年11月造幣寮勤務、同7年、キンドルとソリが合わず大蔵省に移り、同14年11月から同26年6月まで造幣局長(在任11年半余は歴代2位)。「桜の通り抜け」の発案者でもある。

明治16年(1883年)、「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放を始めました。

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長谷川為治さんってどんな人ですか?

長谷川為治

山口県(長州)出身者で、明治3年(1870年)入局以来、大正2年(1913年)に造幣局長(明治26年から20年間在任)を最後に退官するまで、実に43年間の勤続年数を誇った生粋の”造幣マン”でした。

局長在任中は、明治30年(1897年)の「貨幣法の制定」、明治41年から45年(1908年から1912年)にかけての「動力電化・貨幣製造能力倍増の設備拡張工事」などに尽力されました。

なお、旧正門内に氏の功績をたたえ、胸像が建立されています。

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畑 正吉さんってどんな人ですか?

畑 正吉

東京高等工芸学校教授、大正4年に造幣局の彫刻技術顧問を嘱託され、昭和2年彫刻研究所長、同5年に同研究所が廃止された後も昭和23年まで嘱託としてとどまった。この間、賞勲局の嘱託であったこともある。

文化勲章の製作者としても有名で、本局旧正門内にあります長谷川局長の胸像は氏の指導により製作されたものである。

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本田 渓花坊さんってどんな人ですか?

花の里塚

昭和39年4月、句碑「花の里塚」が建立された。「大阪に花の里あり通り抜け」という本田渓花坊氏作の句を刻んだものである。

本田渓花坊は関西川柳界の第一人者であると同時に、近世江戸文化研究家、徘諧史、川柳史専攻、「大大阪」「川柳国」を主宰。

本田渓花坊氏の句碑は、造幣局のほかに和歌山県白浜の山王神社の柵内にあります。

他に白浜をたたえた、中村憲吉や有間皇子の句碑が白浜周辺には残されています。

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ウォートルスさんってどんな人ですか?

ウォートルス設計の創業当時の正門と衛兵詰所の写真

ウォートルス設計の創業当時の正門と衛兵詰所

グラバーの紹介で明治元年から3年間、造幣局建築の設計監督に当たりました。煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど当時日本にない技術でしたが、言葉の通じない邦人職人を熱心に指導して成し遂げました。

造幣局完成後東京に赴き、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎、製紙工場など数々の名建築を残しました。

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ブラガさんってどんな人ですか?

ブラガ

明治3年以来、勘定役兼帳面役として英文簿記の事務を担当し、その傍ら日本人局員に簿記を教えました。

その後明治8年から大蔵省に転属し、「大蔵省の簿記計算法取調方」に命じられました。わが国の官庁簿記は、明治12年以来複式簿記を実施していますが、ブラガの指導が基になったものです。

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キンドルさんってどんな人ですか?

キンドル

馬上/キンドル

明治3年以来、造幣首長として雇用され明治8年に退職しました。創業期の造幣局に大きな貢献をしました。当時栄華を誇った大英帝国の元陸軍少佐、元香港造幣局長という経歴を持っていました。

当時1円=金1.5グラム=1ドルであり、局長クラスが200~300円、職工が5円前後の時に、キンドルは、1,045円という高給でした。

技術面を初め、造幣局の運営について外国人に全面的にその指導を仰がねばなりませんでした。外国人の存在なしに、文明開化を成し遂げられなかった日本の宿命といえます。

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ガウランドさんってどんな人ですか?

ガウランド

明治5年、化学兼冶金師試験分析方として雇用され明治21年に退職しました。人望が厚く、後に勲章を受け、褒章が贈られています。

また、登山家、古墳研究家としても知られ、外国人として初めて槍が岳の登頂に成功しました。日本アルプスの命名者でもあります。

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トーマス・グラバーさんってどんな人ですか?

トーマス・グラバー

安政6年(1859年)に来日し、長崎にグラバー商会を設立し、薩長などに鉄砲を売っていました。グラバー邸は今も長崎の観光地となっています。

慶応4年に政府は造幣工場の建設を決定し、会計官判事由利公正、外国事務局判事五代友厚らと英国商人グラバーとの間に当時閉鎖の状態にありました香港造幣局機械一式を6万両で購入する契約が成立しました。

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ツーキーさんってどんな人ですか?

ツーキー

明治3年に試験分析方として雇用され明治6年に退職しました。鋳造所内に設けられた試金室において金銀地金や貨幣の分析の指導を行いました。

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アトキンさんってどんな人ですか?

アトキン

明治3年に金銀鎔解師として雇用され明治8年に退職しました。明治初期の大阪地誌に「築造きわめて広壮華麗をつくし、数個の大煙突は高く空中に突出し、黒煙日として断ゆることなし。」と記された金銀貨幣鋳造所において溶解作業の指導を行いました。

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マンチニさんってどんな人ですか?

明治3年に雇用され明治10年に退職するまで伸金局助役兼機械方として勤めました。当時の造幣局が貨幣を大量生産していくためには、その生産資材は外国から輸入するか、また自家生産によるほかなく、造幣局そのものを一大総合工場としなければなりませんでした。絵画に心得のあったマンチニがその様子や建物を的確に描写しています。

創業当時の造幣局 (マンチニの絵)

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歴史的事項
  1. 馬車鉄道ってなんですか?
  2. わが国で初めて複式簿記を採用したのは、造幣局ですか?
  3. 造幣局創業当時の機械設備にはどのようなものがありましたか?
  4. 造幣局の創業式ってどのような感じだったの?
  5. 製造したものの発行されなかった貨幣について教えて?
馬車鉄道ってなんですか?

明治4年、造幣寮と堂島新船町との間に資材運搬のため馬車鉄道を建設しました。明治6年に運行の所管を鉄道寮に移し、明治8年に敷地は大阪府に譲渡されました。

馬車鉄道

創業当時の造幣寮全景模型は造幣博物館1階に展示しています

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わが国で初めて複式簿記を採用したのは、造幣局ですか?

馬車鉄道

香港造幣局の会計係であったブラガの指導により造幣局は、わが国で初めて複式簿記を採用、貸借を明らかにし、証拠書・日計表により勘定を明確にするなど会計事務の整備を行いました。ブラガは後に大蔵省(現財務省)に移り、官庁会計全般の指導に当たりました。洋式簿記は、造幣博物館1階に展示しています

ブラガさんってどんな人ですか?

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造幣局創業当時の機械設備にはどのようなものがありましたか?

フランス製トネリエ圧印機

創業の時点で既に金・銀貨幣の鋳造場は稼動しており、20馬力の蒸気機関2基が全設備の原動力で、金溶解用コークス炉6基、銀溶解用12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、圧印機8台などが配置されていました。

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造幣局の創業式ってどのような感じだったの?

明治4年4月4日、創業式が盛大に挙行されました。右大臣三条実美、参議大隈重信、大蔵卿伊達宗城ら政府高官、各国公使を来賓に、造幣寮からは馬渡造幣頭らの幹部、合わせておよそ100名が列席していました。

大阪城内からの21発の祝砲と、天保山沖の軍艦「富士」や外国軍艦からの祝砲が轟くなか、三条実美右大臣が告文を読み上げ、続いて自ら蒸気弁を用いて機械を運転させました。式典には花火が上がり、祝宴へと移りました。

翌日からは一般開放され、周囲の町家は提燈を掲げるなどお祭り騒ぎが続いたといわれています。

創業式

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製造したものの発行されなかった貨幣について教えて?

陶貨

第2次世界大戦末期、軍需用に大量の金属が必要となり、貨幣に使用できる金属は極わずかなものになっていました。そこで造幣局では、京都、瀬戸および有田にそれぞれ出張所を設置し、昭和19年(1944年)から陶(せともの)を使った貨幣(10銭、5銭、1銭)の試作を行いました。昭和20年(1945年)7月には、京都と瀬戸で量産が始まりましたが、終戦により、8月には、陶貨の製造中止が決定され、製造された陶貨は粉砕破棄されることとなりました。

昭和25~26年(1950~51年)に製造された10円洋銀貨も、朝鮮戦争が勃発し、材料の一つであるニッケルの価格が高騰したため、手に入りにくくなり、発行されることはありませんでした。

また、大正7年(1917年)の10銭銀貨、20銭銀貨および50銭銀貨とも、銀価格の高騰のために未発行に終わりました。

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その他のよくあるご質問
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