「さくら」は古代には、「稲の神様を表す木とされていました。桜の花のつき方や、散る時期で、その年の豊作を占いました。
また「木花之佐久夜毘売」という美しい神様の「佐久夜」が転じて「佐久良」になったとも言われています。
どちらにしても、「さくら」は、日本人の生活にとって、とても大事で美しいものなのですね。
ちなみに「さくら」は、バラ目バラ科サクラ属サクラ亜種に属する落葉樹です。
造幣局の「桜の通り抜け」の歴史
通り抜けの始まり
明治16年〔1883年〕、時の遠藤局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、造幣局構内にある桜並木の一般開放が始まりました。
明治の通り抜け
江戸時代、「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」で有名な藤堂藩蔵屋敷で里桜を育成しており、造幣局は敷地とともに桜を受け継いだと言われています。
通り抜けの順路は、当初、現在の南門から源八橋までの約1キロありましたが、明治31年〔1898年〕に、現在の北門までの約560メートルに短縮されました。
大正の通り抜け
大正時代に入ると花見客も増え、大正6年〔1917年〕には約70万人を集め、戦前最高を記録しました。
この時代は、大阪の重工業の発展期であり、煤煙により桜が枯死する事態が起こっています。
外部のコンサルタントの手を借りるなど、桜の維持管理には並々ならぬ努力が必要でした。
昭和の通り抜け
第2次世界大戦中の昭和17年〔1942年〕、通り抜けは、開催期間の途中で中止されました。
昭和22年〔1947年〕、通り抜けが再開され、さらに昭和26年〔1951年〕には、夜間開放が始まり、夜桜を楽しむことができるようになりました。
昭和30年代中頃には、工業の復興とともに再び大気汚染問題が持ちあがりました。
現在、品種の主流を占める関山の本数が、この頃から急増しました。
長らく門外不出であった造幣局の桜も昭和40年〔1965年〕には、北海道松前町に移植され、また同町からの寄贈を受けました。
昭和58年〔1983年〕には、太平洋を越えてアメリカ合衆国に渡った通り抜けの桜もあります。
同じ年に通り抜けは100周年を迎え、記念行事が行われました。
現在の通り抜け
現在は約340本、約140品種、全国各地からの桜が咲いています。
イギリスから里帰りした桜もあります。
通り抜けの桜は、主に京都を中心に関西、東京を中心に関東、また北海道松前からとなっており、浪花の春に咲き誇っています。