150周年

リレーエッセイ

造幣局の学び舎 -現金出納簿から見た日進学社運営-

造幣博物館学芸員 山﨑 祐紀子

今から150年ほど前、創業間もない時期の造幣局には「日進学社」という学校がありました。お雇い外国人から優れた知識や技術を学び取るために英語や化学、数学等の学問を身に付け、ひいては外国人に頼らず、日本人の手で造幣局を運営できるようになりたいという思いから、明治5(1872)年に有志の職員が設立したのが始まりです。

その後、明治8(1875)年にお雇い外国人の半数が雇用契約の満了を理由に造幣局から姿を消すと、日進学社は職員に対する教育だけでなく、子供に対する教育に力を入れるようになっていきます。職員を主な対象とする英語科、数学科などに加え、明治9(1876)年頃に小学科、明治12(1879)年頃に女子に裁縫などを教える女紅科、明治15(1882)年頃に幼稚園を相次いで設立しました。明治14(1881)年の記録によれば、日進学社に在籍する生徒183名のうちのほとんどが小学科の生徒だったことが分かっています。

さて、この日進学社の運営にあたり問題となったのが、教師に支払う月給や教材費等の財政面に関することでした。当初は職員が月給の一部を寄付して運営したようですが、支出に追い付かず、新聞紙上で寄付を募ったほか、大蔵省に補助金の支給を求めました。

日進学社の財政を明らかにするにあたって重要な史料が『日進学社現金出納簿』という記録です。これには明治7(1874)年から同24(1891)年にかけての入出金が記録されています。

この史料から、日進学社の収入の大部分を大蔵省による補助金が占めていたことが分かりました。それに加え、生徒から支払われる月謝や、造幣局の職人長屋に住む人等の排泄物を田畑の肥料として売り払った下屎代を収入として計上しています。一方、主たる支出は教師などの人件費で、それについで教材費や雑費がありました。明治11(1878)年1月を例に見た場合、補助金を含めた収入が68円ほどであったのに対し、支出は96円を超えており、大幅な赤字であることが分かります。

こうした赤字を補うべく、当時の人たちが何とか収入を得ようと工夫したことも『日進学社出納簿』は教えてくれます。例えば、造幣局内の不用品を売り払った代金や、漁者を雇って入堀の魚を捕獲し、それを売り払った代金が日進学社の収入に充てられました。また明治11(1878)年以降、造幣局内に保管していた日進学社の資金を三井銀行に預けることで、たびたび利息収入を得ていたことが分かりました。

こうした事柄からは、当時の人たちが学問や研究、教育の場である日進学社をいかに大切に考えていたかうかがうことができます。新知識・新技術の源泉とも称された造幣局において、日進学社はその受容や普及のために欠かせない場であったといえるでしょう。