150周年

造幣局創業に関わった著名人のご紹介

五代友厚(1836~1885)【造幣機械の輸入に尽力】

五代友厚薩摩藩(鹿児島県)出身の五代友厚は、明治の大阪経済の基礎を築いた人物です。外国事務局判事であり、川口運上所(現在の大阪税関)の初代長官を務めていた五代は、1868(慶応4)年、当時閉鎖状態にあった香港造幣局の機械一式の購入に尽力し、また、造幣局建築の設計監督者ウォートルスの雇用に関わるなど、造幣局の創業に貢献しました。
その後は関西経済界の重鎮として経済の発展振興に努め、大阪商工会議所初代会頭などを歴任しました。

由利公正(三岡八郎)(1829~1909)【新貨幣の製造準備を指揮】

由利公正福井藩出身で、藩主松平慶永(春嶽)に重用され、坂本龍馬とも親交があった由利公正(三岡八郎)は、「五箇条の御誓文」の起草者の一人としても知られています。新政府においては財政問題を担当し、新たな貨幣の仕様等の検討を指揮するとともに、1868(慶応4)年には会計官(後の大蔵省)判事として、外国事務局判事五代友厚らと協議し、イギリス人商人グラバーを通じて、当時閉鎖状態にあった香港造幣局の機械一式を6万両で購入する契約を締結しました。
その後は東京府知事、元老院議官などを歴任しました。

トーマス・グラバー(1838~1911)【造幣局の創業に貢献】

トーマス・グラバー長崎の観光名所、世界遺産「旧グラバー住宅」で知られているイギリス人トーマス・グラバーは、1859(安政6)年に来日し、その後グラバー商会を設立、長崎を拠点に茶などの産品や艦船・武器を扱う商人として活躍しました。
彼は、五代友厚らの意を受けて、造幣局の設立のために当時閉鎖状態にあった香港造幣局の機械一式の購入につき仲介の労をとったほか、建築技師ウォートルス(造幣局の設計と工事監督を担当)の雇用や建築資材の輸入に関わるなど、造幣局の創業に貢献しました。

大隈重信(1838~1922)【近代的な通貨制度を建議】

大隈重信佐賀藩出身で、早稲田大学の創立者として名高い大隈重信は、新政府参与であった1869(明治2)年、近代的な通貨制度の構築のため、造幣局判事久世喜弘とともに「通貨の単位は十進法を採るべきこと」、「貨幣の形状を先進国に倣い円形とすること」等を建議しました。これが1871(明治4)年の我が国初の近代的通貨法令「新貨条例」の制定に繋がっています。

T・J・ウォートルス(1842~1898)【造幣局建設を設計監督】

T・J・ウォートルスアイルランド人のウォートルスは、グラバーの紹介で明治元年から3年間、造幣局建設の設計監督に当たりました。煉瓦の製造、煉瓦積み、ペンキ塗りなどは当時の日本にはない技術でしたが、言葉の通じない邦人職人を熱心に指導して成し遂げました。造幣局完成後は東京に赴き、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎、製紙工場など数々の名建築を残しました。

井上馨(1836~1915)【造幣局の建設を指揮】

井上馨長州藩(山口県)出身の井上馨は、21歳のとき「長州ファイブ」とも言われる同藩の伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝との5名でイギリス留学し、帰国後においては1869(明治2)年、1870(明治3)年、1872(明治5)年の三度にわたって造幣局トップである造幣頭を務めました。造幣局建設の指揮に関わった中心的人物であり、1871年4月4日(明治4年2月15日)の造幣局の創業式についても、その実現に向けて尽力しました。後年においては、大蔵大臣、外務大臣を歴任するなど、官界で長く活躍しました。

伊藤博文(1841~1909)【金本位制を提案】

伊藤博文長州藩(山口県)出身で、初代内閣総理大臣として有名な伊藤博文は、1871(明治4)年8月から1か月半ほどの短い期間ではありましたが、造幣局のトップである造幣頭を務めました。
 1871(明治4)年6月に公布された我が国初の近代的通貨法令「新貨条例」では金本位制が採用されていますが、これは1870(明治3)年に財政研究のためアメリカを訪れていた伊藤からの建議を受けてのものでした。

渋沢栄一(1840~1931)【造幣局の諸制度を立案】

渋沢栄一現在の埼玉県深谷市の農民出身で旧幕臣の渋沢栄一は、大隈重信に説得されて1869(明治2)年に大蔵官僚となり、財政、金融制度の確立に手腕を発揮しました。その中で、造幣局の業務運営に係る諸制度の立案等も担当し、1871(明治4)年には大阪の造幣局まで二度足を運びました。
まもなくして実業界に転じ、生涯に約500もの企業の設立等に関わるなどの活躍をしました。

遠藤謹助(1836~1893)【桜の通り抜けの発案者】

遠藤謹助第10代の造幣局長を務めた遠藤謹助は、幕末期に長州藩(山口県)が隠密裏にイギリス留学させたいわゆる「長州ファイブ」の一人です。ちなみに他の4人は井上馨、井上勝、伊藤博文、山尾庸三で、このうち山尾を除く4名が造幣局のトップを務めました。
遠藤は、造幣局長であった1883(明治16)年、造幣局構内の桜並木について「局員だけでの花見は勿体ない。大阪市民と共に楽しもうではないか。」として一般に開放、これが現在の「桜の通り抜け」の始まりとなりました。

ウィリアム・ガウランド(1842~1922)【職員に慕われた化学・冶金技師】

ウィリアム・ガウランドイギリス人ガウランドは明治5(1872)年に造幣局に招かれ、化学・冶金技師、試験分析方として、銅精錬用の英国式反射炉の築造と操業技術・精錬作業の指導、金属地金や諸材料の分析技術の指導にあたりました。
古墳研究者や登山家としても知られており、「日本アルプス」はガウランドの命名によるものです。
温厚な技術者として造幣局職員からの人望が厚く、造幣局外への技術指導にも功績のあったガウランドは、明治21(1888)年までの長きにわたり在職し、同年に帰国する際には、日本政府から勲章も授与されました。

益田孝(1848~1938)【造幣局から羽ばたいた実業家】

益田孝佐渡奉行下役の家に生まれた益田は、幕府外国方で米国公使館勤務や欧米使節団随行などを経験しました。維新後は語学力を生かし、横浜で貿易業に従事していましたが、井上馨の抜擢により大蔵省に出仕、井上が造幣頭であった明治5(1872)年に造幣権頭(造幣局副局長)に就き、職員への英語教育や人材育成に努めました。
翌明治6(1873)年に退官した後、27歳で旧三井物産の初代社長となった益田は、三池炭鉱の買収に尽力するなど、三井財閥の発展に大きく寄与しました。