150周年

リレーエッセイ

渋沢栄一と造幣局

造幣博物館学芸員 山﨑祐紀子

令和6(2024)年度上期を目途に発行予定の新1万円札の顔で、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一は、維新後まもなく、明治政府において財政や金融制度の確立に貢献しました。渋沢が明治政府に出仕した明治2(1869)年から同6年は、近代国家にふさわしい純正画一な貨幣を製造すべく造幣局の建設が始まり、その事業が本格化していった時期とも重なっています。
大蔵省において大久保利通大蔵卿、井上馨大蔵大輔等に次ぐ大蔵大丞の地位にあった渋沢は、造幣局とどのような関わりがあったのでしょうか。造幣博物館の古文書から紹介します。

こちらは造幣権頭の馬渡俊邁(まわたり としゆき)と渋沢が連名で、大久保や井上らに宛てて提出した文書の一部です。日付は明治4年11月6日付で、渋沢が大久保との国家予算をめぐる衝突から、井上に説得されて大阪に出張し、馬渡とともに造幣局の事務を監督していた時期にあたります。
内容は造幣局の金銀貨幣工場の修繕と西洋器械の購入に関することです。造幣局で働くお雇い外国人トップ(造幣首長)のキンドル(T.W.Kinder)が、これらについて大至急で請求することがあるため、やむを得ない事柄の場合、馬渡の特裁によって対処することに許可を求める内容です。つまりキンドルの要求に対し、金額の多寡に関わらず、事前に大蔵省へ伺いを上げることなく造幣権頭の判断で対応し、大蔵省へは事後報告を行い、改めて許可を受けた上で経費を精算する、という特殊な手続きを取ろうとしたものです。この依頼は後日、大久保と井上から許可されました。
創業間もない時期の造幣局は、貨幣の製造にあたり、お雇い外国人がもつ進んだ知識や技術を必要としました。しかし、キンドルが名前をもじって「雷(Thunder)」とあだ名されるような激しい性格の人物であったことに加え、造幣首長の職務権限や命令系統に雇用契約上の問題があったこともあり、造幣頭や造幣権頭との衝突が続きました。そのため馬渡だけでは造幣局の運営が滞っており、井上は渋沢を大阪に出張させることで、事務の円滑化を図ったものと思われます。
この文書からは、ものの考え方や言語、風俗習慣を異にするお雇い外国人とのギャップに悩みながらも、貨幣の製造という造幣局が担う重要な事業が滞ることのないよう苦心する馬渡や渋沢の姿をうかがうことができます。渋沢が造幣局の事務に直接関与した時期があることを示すのみでなく、日本初の近代洋式工場でもある造幣局の創業当時の実状を反映する、貴重な史料といえるでしょう。