せかいいさん・かへいセット

⑮ 平泉ひらいずみ仏国土ぶっこくど浄土じょうど)をあらわ建築けんちく庭園及ていえんおよ考古学的遺跡群こうこがくてきいせきぐん

平泉仏国土ひらいずみぶっこくど浄土じょうど)をあらわ建築けんちく庭園及ていえんおよ考古学的遺跡群こうこがくてきいせきぐん」は、12世紀せいき奥州藤原氏おうしゅうふいわらし現世げんせにおける仏国土ぶっこくど浄土じょうど)を空間的くうかんてき表現ひょうげんすることを目的もくてきとして創造そうぞうした一群いちぐん建築けんちく庭園ていえん芸術作品げいじゅつさくひんふくむ「中尊寺ちゅうそんじ」、「毛越寺もうつうじ」、「観自在王院跡かんじざいおういんあと」、「無量光院跡むりょうこういんあと」と、それらと直接的ちょくせつてき文脈及ぶんみゃくおよ空間的一体性くうかんてきいったいせいをもつ「金鶏山きんけいさん」の5つの資産しさん構成こうせいされています。

中尊寺ちゅうそんじは、平泉ひらいずみ中心部北側ちゅうしんぶきたがわ関山丘陵せきやまきゅうりょう位置いちする寺院じいんです。奥州藤原氏初代清衡おうしゅうふじわらししょだいきよひらは、日本にっぽん北方領域ほっぽうりょういきにおける政治せいじ行政上ぎょうせいじょう拠点きょてんとして平泉ひらいずみ造営ぞうえいするにたり、12世紀初頭せいきしょとうから四半世紀しはんせいきをかけて、現世げんせにおける仏国土ぶっこくど浄土じょうど)を表現ひょうげんする中核ちゅうかく寺院じいんとして最初さいしょ中尊寺ちゅうそんじ造営ぞうえいしました。  
境内けいだいには、金色堂こんじきどうをはじめ、金色堂覆堂こんじきどうふくどう経蔵きょうぞうなどの建造物けんぞうぶつ存在そんざいするほか、大池伽藍跡おおいけがらんあとなどおおくの遺跡いせき良好りょうこう状態じょうたいのこっています。

毛越寺もうつうじは、12世紀中頃せいきなかごろ奥州藤原氏二代基衡おうしゅうふじわらしにだいもとひら造営ぞうえい着手ちゃくしゅし、三代秀衡さんだいひでひら時代じだい完成かんせいいたった寺院じいんです。12世紀末期せいきまっき毛越寺もうつうじには、40にもおよ堂宇どううと500にものぼる禅坊ぜんぼう存在そんざいしたとされています(『吾妻鏡あづまかがみ』)。現在げんざい浄土庭園じょうどていえん平安時代へいあんじだい伽藍遺構がらんいこうがほぼ完全かんぜん状態じょうたい保存ほぞんされています。
観自在王院跡かんじざいおういんあとは、毛越寺もうつうじひがしせっ基衡もとひらつま建立こんりゅうした寺院じいんあと。「舞鶴まいづるいけ」と呼称こしょうされる園池そのいけ中心ちゅうしんとして、北側きたがわには大小だいしょう阿弥陀堂あみだどうもうけられ、「浄土庭園じょうどていえん」がつくられていました。
無量光院跡むりょうこういんあとは、奥州藤原氏三代秀衡おうしゅうふいわらしさんだいひでひらが、平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうして建立こんりゅうした寺院じいんあとです。建物たてもの中心線ちゅうしんせん西にし金鶏山山頂きんけいざんさんちょう直線ちょくせんむすばれ、春秋はるあきには、夕刻時ゆうこくとき金鶏山きんけいやま山頂付近さんちょうふきん日輪にちりんしずむよう設計せっけいされていました。

金鶏山きんけいさんは、中尊寺ちゅうそんじ毛越寺もうつうじのほぼ中間ちゅうかん位置いちし、平泉ひらいずみまもるため雌雄一対しゆういっつい黄金おうごんにわとりめたという伝説でんせつのこやまです。頂上ちょうじょうには経塚きょうづかいとなまれたあとがあり、平泉ひらいずみのまちづくりの基礎きそとなった象徴しょうちょうやまであったとされています。

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