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ホーム > 桜の通り抜け/花のまわりみち > 桜の通り抜けの沿革

毎年4月中旬頃の桜の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長560mの通路を一般花見客のために1週間開放しています。
現在構内にある桜は、関山、普賢象、松月、紅手毬、芝山、楊貴妃など約120品種、約350本を数えていますが、大半は遅咲きの八重桜で、満開時の美しさはたとえようもなく、明治16年に開始した「通り抜け」も昭和58年春には100年を迎え、今では浪速の春を飾る風物詩として、人々に愛されています。
なお、紅手毬、大手毬、小手毬及び養老桜などは、他では見られない珍種と言われています。

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桜の通り抜け最新情報
桜の通り抜けデータ
造幣局の所在地である大阪市北区天満の旧淀川沿いは、昔から景勝の地として名高く、春は桜、夏は涼み舟、秋は月見など四季折々のにぎわいを見せ、特に春の桜は有名で、対岸を桜ノ宮と呼ぶにふさわしく、この地一帯に桜が咲き乱れていたと言われています。
明治16年(1883年)、時の遠藤謹助局長の「局員だけの花見ではもったいない。市民とともに楽しもうではないか」との提案により、構内の桜並木の一般開放が始まりました。

江戸時代、旧藤堂藩蔵屋敷(泉布観の北側)で里桜を育成しており、造幣局は敷地とともにその桜を受け継いだと言われています。桜はそこから移植され、品種が多いばかりでなく、他では見られない珍しい里桜が集められていました。
通り抜け順路は、当初、川崎通常門(現在の南門)から裏門(源八橋西詰)まで約1キロでしたが、明治31年(1898年)に現在の北門付近までの約560 メートルに短縮されました。なお、開始当時から一方通行であることに変わりはなく、進行方向も昭和14年から同31年(1939年から1956年)までの間南向きであったことを除き、北向きです。
この時代、人出は概ね2万人から10万人で推移していました。また明治42年(1909年)時点で18種287本、品種としては一重の「芝山」が半数を占めていました。

大正時代に入ると花見客も増え、大正6年(1917年)には約70万人を集めて戦前最高を記録しました。当時は大阪の重工業の発展期であり、煤煙により桜が枯死する事態が起こりました。「芝山」が半減し、一重八重の「御車返(みくるまがえし)」が主流を占めるようになりましたが、その後これも激減するなど、品種の移り変わりが激しくなりました。桜は大気汚染に弱く、外部のコンサルタントの手を借りるなど維持管理のための努力は当時から並々ならぬものがありました。
第2次世界大戦が勃発し、昭和17年(1942年)、通り抜けは開催期間途中で中止されるに至りました。戦禍は造幣局にも及び、昭和20年(1945年)6月の大空襲では約500本中300本の桜が焼失しました。
その後、通り抜けの復活に大きな努力が払われ、昭和22年(1947年)、ようやく再開の運びとなりました。順次桜樹の補充が行われ、昭和26年(1951年)には夜間開放(夜桜)も始まりました。
昭和30年代中頃には工業の復興とともに再び大気汚染対策の問題が持ち上がりました。現在品種の主流を占める八重の「関山」は、この頃から本数が急増しています。
長らく門外不出であった通り抜けの桜も、昭和40年(1965年)に北海道松前町に移植され、また同町から寄贈を受けました。さらに平成3年(1991年)には長野県高遠町から同県の天然記念物である「高遠小彼岸桜」の寄贈を受けるなど、最近では外部との交流が行われるようになりました。昭和58年(1983年)には太平洋を越えアメリカ合衆国に渡りました。
同年には通り抜け100周年を迎え、各種記念行事が行われました。
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現在では大阪の年中行事の一つとして行楽スケジュールに必ず加えられるほど多くの人を誘い、その人出は70万人から80万人に及んでいます。
「通り抜け」とは、「桜花縦覧のため表門(現在は南門)から入り、造幣局構内を通って裏門(現在は北門)へ抜ける」、つまりは文字どおり構内を通り抜けることが、その名の由来です。「あともどりできない通り抜け」がいつしか「通り抜け」という固有名詞となってしまいました。
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